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初代三浦郡長・小川茂周について(MS研究会#525)

5月26日(月)、追浜地区の建設業を中心としてスタートした異業種の勉強会「MS研究会」で、郷土史家で横須賀開国史研究会会長・山本詔一様をお招きした第525回5月例会(講演会)が開催されました。

会場は追浜コミュニティセンター4階集会室で、参加者は18名(会員14名ゲスト4名)でした。

「初代三浦郡長・小川茂周(しげちか)」を取り上げていただきました。

小川茂周は、1835年(天保6年)に大津の池田の有力な農家に生まれました。1848年(嘉永元年)、13歳で大津村の名主見習いとして公職に就き、その後、大津村名主、水夫人夫差配賄方、農兵世話役、三浦郡大惣代などを務め、幕末の激動の時代を三浦半島のリーダー的存在として活躍しました。

当時、陣屋を構えていた大津村は川越藩の警備体制下に組み込まれ、彦根藩とともに江戸湾の警備に当たっていました。10代後半から20代にかけてこれだけの仕事をしているということは並外れた能力の持ち主であったことがわかります。

明治維新後、1871年(明治4年)、行政区画として区が設置されました。三浦郡の77ヶ村が10区に区分され、小川茂周は第2区の、大矢部、岩戸、小矢部、森崎、池上、金谷、上平作、下平作、大津、鴨居、走水の11ヶ村の戸長となりました。

1873年(明治6年)、区画改正では、第15大区42ヶ村の区長となり、その後、1878年(明治11年)、新しい郡町村制が敷かれ、初代の三浦郡長となりました。

この頃から横須賀に開設された造船所が本格的に稼働し始め、横須賀の人口急増につながり、横須賀方面への生活物資移入の基地として、また、横浜・東京からの旅客の玄関口を確保するためもあり、白浜を埋め立てて港を造ることを主張しました。こうして埋め立てが行われ、現在の小川町ができました。町名には、主唱者の小川茂周の名前から、「小川町」と名付けられました。

三浦郡長となった小川茂周は、席を温める暇もないほど忙しく駆け回り、その手腕は高く評価されました。なかでも教育問題にはとても熱心に取り組み、1883年(明治16年)、教育の統一を図る目的で、三浦郡教育会を設立し、初代の会長に就任しています。教員の養成、義務教育に向けて児童の就学督励などにも努力しました。

1917年(大正6年)に刊行された『久里浜村誌』という本があります。これはペリー来航時の感想として、とても面白くもあり、当時の人々の生活をうかがわせる興味深い逸話が収録されています。時代小説などでも登場する話です。ペリー来航時、小川茂周は18歳でした。小川の専売と言われた「ペリー談話」を海軍大臣や、内務大臣などを歴任した西郷従道や、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)などにことあるごとに自慢げに語っていたとのことです。これらは、文献などには残りにくい当時の人々の感覚を教えてくれる資料となっています。

1902年(明治35年)、67歳で亡くなりました。その生涯のほとんどを公職のために費やし、三浦半島の近代化に大きく貢献しました。お墓は、横須賀市大津町の信誠寺に建てられました。

1914年(大正3年)、その功績が認められ、衣笠山公園に記念碑が建てられました。

ご講演を通して、郷土の歴史を正しく理解し、地域に誇りを持つことの大切さを学ばせていただきました。

来年は2027年からスタートする大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗上野介のお話ししていただく予定です。とても有意義なお話しでした。ありがとうございました。

このご講演の模様はJ:COMチャンネルにて6月7日(土)より13日(金)までの1週間のスケジュールで紹介されます。数分間という短い時間ですが、是非、ご覧ください。

※「MS研究会」は、昭和51年(1976年)8月26日、追浜地区の建設業を中心とする異業種の勉強会「MS住宅研究会」として発足しました。平成16年(2004年)8月26日、更なる発展のため名称を「MS研究会」と改め、横須賀で活躍する経営者などが加入し、発足以来、共栄の限りない追究を目的として、講演会や視察会などを原則として毎月26日に開催し研修を重ねています。現在会員17名で活動しています。令和5年(2023年)2月23日に第500回記念特別行事を開催しました。

MS とは MODERN SYSTEM(モダンシステム)の略。