中世から風光明媚な景観が人々を楽しませた金沢八景周辺は、江戸時代に歌川広重が描いた金澤八景でさらに有名になりました。8枚描かれた風景画のうちの1枚「野島の夕照」には、遊覧船や海に浮かぶ烏帽子岩や夏島が描かれています。
このようなのどかな風景が一変してしまうのは、追浜地先埋立と呼ばれる海軍による埋め立てからです。
明治45年(1912年)に海軍航空術研究委員会が追浜海岸で海軍初の航空実験を行い、追浜飛行場の拡張を目的として、浅瀬が広がり波も穏やかだった追浜の沖が埋め立てられ、烏帽子岩が姿を消し夏島が陸続きになりました。その後、日本初の海軍航空隊が組織され、追浜は航空基地の中心となっていきました。
昭和5年に湘南電鉄の追浜駅が完成し、この頃から追浜の街は賑わいを見せていきます。
その後の太平洋戦争では追浜地区をはじめ横須賀は大規模な空襲を受けることはなかったのですが、戦争が終わるとすべての施設が米軍に接収されてしまいました。1950年に公布された旧軍港都市転換法(軍転法)によって、舞鶴、呉、佐世保と同様に横須賀が国の援助を受けて、将来の発展と繁栄の道を歩むことになります。
しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると米軍の軍需拡大による調達基地として米軍に再び接収されました。旧軍用財産を活かした平和産業港湾都市への取り組みが足踏み状態となりましたが、この2度目の接収で、追浜地区に富士自動車、日本飛行機が米軍からの打診を受け、軍需工場として稼働し始めます。いわば、追浜の工業地域化の第一歩となりました。
しかし、朝鮮戦争の休戦協定の締結後の1958年に富士自動車、日本飛行機の工場が閉鎖されることになりました。これは大きな社会問題となりましたが、その後、軍転法に基づき、米軍より返還された追浜地区の旧軍用地及び旧軍用施設は、日産自動車、関東自動車、岡村製作所をはじめとする民間企業27社に払い下げられました。
追浜地区の工業地域化がさらに進むと同時に、追浜の街も活気を取り戻し、商店街にはデパートが建設され、映画館も2館ありました。
【参考文献「目で見る近代の金沢」(神奈川県立金沢文庫)/「海軍航空技術廠の技術と戦後」(高村總史)/「旧軍用地から工業地域への変容過程」(塚田修一)ほか】