> 新よこすか風土記 > 追浜の歴史 > 追浜の歴史2

Story新よこすか風土記

追浜の歴史

明治時代~昭和時代

追浜の歴史2

追浜は、明治期を迎え大きな歴史の舞台へと動き出した。明治政府は国会開設に備え憲法制定ため、伊藤博文をヨーロッパ諸国に外遊させた。1887年(明治20年)から夏島に別荘を構え、極秘で憲法草案に着手した。当初は金沢の東屋旅館で論議していたが、伊藤の部屋に泥棒が入り草案入りのカバンが盗まれ、以来夏島で草案を練って明治憲法草案を完成させた。別名「夏島憲法」とも呼ばれている。

この夏島周辺は波も穏やかで、今から100年前に旧海軍がフランスのファールマン製やアメリカのカーチス製の水上飛行機を購入し、初めて飛行した地である。明治45年から飛行場建設のため夏島が削られ一部埋め立てが始まり、烏帽子島も全て削られ昭和20年まで20数回の埋め立てが行われ、基地隣接の鉈切り地区の神社や住民も移転が始まった。

「海軍航空隊の発祥の地」の追浜は、昭和7年には海軍航空廠も設置され、飛行機の本格的な研究が始まり日本屈指の航空機開発の総本山になった。当時、日本はアメリカを仮想敵国として、横須賀海軍航空隊も戦闘機の試験飛行を重ね、昭和16年太平洋戦争へと突入していった。真珠湾攻撃の指揮を執った海軍源田実中佐は追浜での飛行訓練の際、宙返りなどのアクロバット飛行を行い「源田サーカス」と言われていた。

基地周辺は戦闘機の爆音で夜が明け、少年達の中にはパイロットに憧れ予科練に志願し、太平洋戦争半ばでレイテイ沖に散った方もいる。今思えば日産グランドライブが、戦闘機の滑走路であったことは誰しも信じがたい。終戦時は、アイクル周辺の追浜の浜をレッドビーチと呼び、連合国軍が昭和20年8月30日に上陸し海軍施設は接収され、市民の目に触れることのない地域となった。

航空機開発の技術開発の人材は、戦後、日本復興に大きく貢献し新幹線、YS11旅客機を生んだ。現在、世界的な海洋開発機構、日産自動車のEV車、造船の住重などが追浜に根付いている。

(神奈川新聞社主催「青木塾」塾長 青木猛)