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横須賀製鉄所物語

中島与曽八

横須賀製鉄所物語<3>

『新横須賀市史』別編・軍事の海軍工廠造機部の中に「三代目造機部長は浦賀奉行所与力中島三郎助の子である中島与曽八機関大佐で、中島は少将進級後の大正2年12月から五代目部長としても勤務した」と記されている。

ペリー来航時に「私は副奉行である」と官職を偽って、アメリカ側と交渉をした中島三郎助の子息が、何故この横須賀海軍工廠に勤務したのでしょうか。

中島三郎助は、幕末期に徳川幕府に殉ずるとして二人の息子(恒太郎・英次郎)と共に北海道に渡ります。榎本武揚を筆頭にこの新天地に徳川家再興を目指しますが、新政府軍はこの地へも討幕の軍を進めます。三郎助は函館五稜郭の前線基地である千代が丘台場で、最後の戦いに二人の子と共に命を落とします。

中島三郎助は、ペリー来航後に幕府から海防のため大船建造令が出され洋式軍艦の建造に取り掛かりました。また、桂小五郎(後に木戸孝允)は、江戸湾防備から萩に戻ると造船技術を身につけなければと、長州藩に造船学を学びたいと届けを出した、この話を吉田松陰が聞き浦賀の中島家で学ぶことを勧めたので、桂小五郎は中島家を訪れ造船術を学ぶことになりました。そして、中島家では弟子として扱うのではなく、近代的な造船を志す仲間として客人待遇で接したことに、桂小五郎は深く感謝の念を持つことになりました。明治維新後の明治9年には中島三郎助の妻寿々が娘六と息子与曽八を連れて桂小五郎を訪問したと、木戸孝允日記には記されています。そして、桂小五郎は五稜郭の戦いで生き残り新政府の重要なポストに就いた榎本武揚などに与曽八を預け、彼らの援助のもとに海軍機関学校に進み、卒業後には英国に留学し、海軍機関中将まで昇進横須賀海軍工廠造機部長に就任しました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)