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横須賀製鉄所物語

製鉄所建設へ

横須賀製鉄所物語<5>

1864年徳川幕府は小栗上野介の建議を受け入れ製鉄所建設を実施することとした。そして、製鉄所建設にあたって西洋先進国のいずれに技術援助を受けるか、小栗上野介は遣米使節団でワシントン造船所を視察した経緯からアメリカをと考えたと思うが、当時アメリカでは南北戦争のさなかであり、とても技術援助が受けられる状況ではなく、他の国の協力を求めることになるが、各国の態度は傲慢不遜でフランスが他の国に比して親日的であり、誠意を見せている国との印象を深めていたので、フランスに技術援助を求めることとした。

幕府はフランスと協議を重ねて「横須賀製鉄所設立原案」が策定され、1865年1月29日に「製鉄所約定書」(条約書)が作成され、製鉄所建設への具体化が進められることとなった。

そして、1865年9月27日には鍬入れ式が行われ、現在の在日米海軍基地の西側の山が切り崩され、海面が埋め立てられ造成された敷地の中には、多くの工場とドライドックが建設された。この敷造成の過程で獣骨が発見され大学南校のナウマン博士の鑑定で象の化石と判明しナウマン象と命名された。

また、フランス人技術者が工事の設計施工にあたっては、日本では全てが尺貫法で実施されていたものを、日本で初めてメートル法で設計し施工されることとなった。そして、造成された敷地にはドライドックが建設された、1号ドックは日本最古のドライドックである。

製鉄所の建設途上では戊辰戦争もあり、江戸城無血開城を経て徳川幕府は倒れたが、その間も工事は引き続き実施され、明治新政府に引き継がれた。そして、1876年(明治9)には1000人を超える職工の他、多くの技術者を擁する大規模な工場へと発展して、明治新政府の殖産興業の模範例となった。

(元横須賀市助役 井上吉隆)