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横須賀製鉄所物語

メートル法・近代簿記

横須賀製鉄所物語<8>

【メートル法】
今まで建物の建築は、間口4間・奥行5間・平屋建て20坪の家を設計して欲しいと言われてきました、これは尺貫法で定められていたからです。この法律も計量法で1958年(昭和33年に廃止され、土地建物の取引や証明についても1966年(昭和41)に廃止されました。そして、測定の単位が間、尺、寸からメートルに変わりました。

しかし、尺貫法が廃止される前から日本ではメートル法が採用されていました。それは何時どこから始まったのでしょうか、横須賀製鉄所から始まったのです。製鉄所の建設にあたってヴェルニーは補佐する幹部職員として、フランスから医師、機械課長、建築課長、会計課長などを採用し着任させます。

そして、横須賀製鉄所の敷地造成工事、土木工事、工場、学校、事務所、官舎などの構造物を建設します。この工事の設計は全てメートル法によりました。そして、工事の実施にあたっての入札や工事の施工は日本人の業者が実施するので、尺貫法への転換など大変な苦労があったと思います。そして、横須賀製鉄所は現在世界遺産登録を目指す富岡製糸工場の建設にも協力することになり、フランス人技術者はメートル法を使用しました。このように近代建築設計の基礎となるべきメートル法は、日本では横須賀製鉄所から導入されました。

【近代簿記】
横須賀製鉄所設立原案の第3節には、「造船所事務制限」が定められていて、その中に「3ヶ月毎に工業の現況、経費の予算を具申すべし」と規定し、会計について「会計に関する簿書は総て和仏の両文を以て内国人及仏人の各主任官之を記載し」と規定しています。つまり3ヶ月ごとに工事の進捗状況と予算の執行状況を、和文、仏文の2種類のもので報告するものでした。そこで注目されるのは来日した仏人幹部職員の中に会計課長が含まれていたのです。そして、この洋式簿記は横須賀製鉄所を通して日本人に伝習されました。

日本人として初めて黌舎の教壇に立った稲垣喜多造は1871年(明治4)フランスに留学を命ぜられ、製鉄所の会計を将来担当するための近代会計学を研究して1874年(明治7)に帰国している。そして帰国後には造船所の会計事務を担当し、全てフランス語で会計帳簿を記入し、バランスシートなどはフランス語と日本語2種類作成することなどが主な仕事となった。こうしたことはヴェルニーの計画どおりに日本人の手に重要な部門が任される体制が整えられていった。

(元横須賀市助役 井上吉隆)