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横須賀製鉄所物語

富岡製糸場その1

横須賀製鉄所物語<10>

ヴェルニーが来日して残したものは横須賀製鉄所だけではありませんでした。日本の近代化に向けての産業革命にも大きな足跡を残しています。

徳川幕府が倒れ明治新政府が樹立すると、国を挙げて殖産興業を目指しました。横須賀製鉄所のような重工業はもとより、貿易による外貨獲得を考え、生糸の輸出に力を入れることとして製紙工場の建設の方針を決定しました。この方針決定の中心人物は、伊藤博文大蔵少輔(現在の次官相当)と渋沢栄一租税正でした。東京築地のフランス人から横浜のフランス人を紹介してもらい、そこでフランス人技師ポール・ブリュナを紹介してもらい採用しました。そして工場用地として各地を調査した結果、群馬県富岡町の「陣屋跡」と呼ばれる地に決定しました。

ブリュナは、土木構造・建築の意匠について、横須賀製鉄所に協力を求め横須賀製鉄所からはエドモン・オーギュスト・バステイアンが推薦され、彼の手により建築様式としては木骨煉瓦のカーテンウオール構造で、横須賀製鉄所と同様にメートル法によって、土木・建築の設計が行われました。製糸工場は1971年(明治4)着工し、1972年に竣工しました、製糸用の設備として蒸気機関等の機械も横須賀製作所で製作されたものが使用されました。生糸生産の工女も地元の協力により400人の工女が採用され、フランス人技術者・工女の指導のもとに良質な生糸が生産されることとなりました。

そして、この官営工場も1893年(明治26)三井家に払い下げになり、原合名会社、片倉製糸紡績会社を経て、1987年(昭和62)操業を停止し現在富岡市が管理していて建物は当時のままの美しい姿を見せています。本年(2014年)世界遺産の登録に向けて手続きが進められています。

(元横須賀市助役 井上吉隆)