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横須賀製鉄所物語

官業経営から民間化へ

横須賀製鉄所物語<16>

明治新政府は、殖産興業・富国強兵から官業を興しました。この物語で取り上げた「富岡製糸場」「生野銀山」も官業企業として設立し、国が自ら経営することにしました。そして、順調に事業が進展するとそれぞれ民営化することにしました。

「富岡製糸場」は、生糸の輸出増加を図るため先進国の機械を導入し、品質の向上、規格の統一、大量生産を目的に1872年(明治5)に設立され操業が開始されました。事業がスタートするまでに横須賀製鉄所の果たした役割は大きなものでした。そして、操業開始してから21年後の1893年(明治26)には三井家に払い下げられました。そして、三井家では9年間運営した後1902年(明治35)に原合名会社に譲渡としました。この原合名会社は、横浜の有名な原富太郎(三渓)の会社です。原合名会社では37年間に渡り運営され、群馬県富岡市で生産され、横浜港から輸出する絹の道(シルクロード)が出来上がりました。品物が流通することに伴って、お金も流れることになり現在の横浜銀行は、地方銀行ですが群馬県内に3つの支店を持つまでになりました。そして、この銀行の初代頭取には原富太郎(三渓)が就任いたしました。しかし、原富太郎も高齢化し1939年(昭和14)に当時最大の製糸業の片倉工業に富岡製糸場を移譲します。片倉工業も1987年(昭和62)まで操業しましたが、その後毎年1億円をかけ施設の維持管理を行い、2005年(平成17)富岡市に寄贈しました。操業停止後の維持管理が世界遺産登録への鍵を握ったといってもいいでしょう。

「生野銀山」も1868年(明治元)官業企業としてスタートし一時皇室財産としましたが、その後1896年(明治29)三菱合資会社に払い下げられ、1973年(昭和48)まで鉱山として運営され閉山しました。そして現在では三菱マテリアルの関連会社の(株)シルバー生野が「史跡生野銀山」の名称でテーマパークとして管理運営がなされています。

民営化された時の払い下げ企業が、戦前財閥と呼ばれた企業であることが気になりました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)