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横須賀製鉄所物語

海軍の先駆者『小栗上野介正傳』

横須賀製鉄所物語<18>

本年は、横須賀製鉄所鍬入れ式から150年を迎えることになり、今までになくこの意義ある年を盛り上げるよう計画が進められている。

横須賀製鉄所・小栗上野介の著作も数多くのものが発行されているものの、日本史の教科書の中には近代産業に横須賀製鉄所が果たした役割、小栗上野介がその建設にどれほどの情熱を傾けたかは、一行の記述さえ見当たらない。

一方、平成25年7月には昭和16年10月15日に発行された海軍の先駆者『小栗上野介正傳』(以下「正傳」と省略)復刻版が発行された。昭和16年に400ページに及ぶ大著であるとともに、「序」には岡田啓介氏・横須賀海軍工廠長都築伊七海軍中将から序文が寄せられている。本書の冒頭に「慶応4年正月、上野介、江戸駿河臺の居邸を去り、菩提寺たる大宮市大成の普門院に立ち寄り後事を託し、同じく采地群馬県群馬郡権田村に蟄居す。同年4月6日岩倉具視配下監軍(今の中尉也と)原保太郎氏に依って斬首の厄に遇った。筆者は幸ひ先年保太郎翁と面談、當時の模様を聞くを得た。」翁曰く「七十餘年前を回顧し一場の夢なり。賊官あるなし、烏川見沼河原に於いて従者三人と共に斬首した。流石、一代の英傑なり。」

この『正傳』の自序で阿部道山氏は「私が、小栗上野介と云う名を覺えたのは18~9歳の小僧時代でありました。それも極めて不明瞭なものでありました。ただ、広い墓場に小栗家一族の沢山の荒廃にまかせた墓があったと云ふのにすぎませんでした。もう27~8年前のことです。」

「私が29歳の時、大正14年春、この寺に住職をいたしました。それから小栗上野介に関した研究が、ぼつぼつ始まったのでありますから年月から云うとかなり長いことになります」と記されている。そして、先代の仙崖和尚も小栗家の墓はなんとかしたいと度々総代会が開かれていたが、昭和9年に普門院境内に小栗上野介招魂記念碑が建立され11月25日に除幕式が実施され、『正傳』によれば時の内閣総理大臣、陸、海軍大臣、文部大臣は各代理を派遣し祝辞を述べているとして、特に内閣総理大臣岡田啓介氏のものについては全文を掲載してあり、その中で「我が海軍建設の祖と謂ふも過言ではないのであります、其の他わが国民文化発達の為になされたる上野介の功績は、誠に顕著なるものであるのに拘らず従来其の名は余り現われなかったのでありますが(略)」このように内閣総理大臣をして評価されている。

また、同書によれば「大正4年9月27日横須賀開港50年記念祭にあたり、時の海軍工廠長、海軍中将黒井悌次郎氏は、この埋もれたる忠誠の人小栗上野介の功績を探索研究の結果、従来世に宣伝せられたる反逆の跡更になし。朝敵とは何事ぞや。却って国家の大功臣なりとして、工廠創設者としての小栗の功績を顕彰する公文書を発表した。又開港50年を記念するため横須賀の諏訪公園に小栗上野介と軍港の技師長たる仏人ウエルニー氏の銅像を建設することとなった。しかもこの銅像建設基金として畏れ多くも当時の皇后陛下には金一封を御下賜遊ばされたのである。(略)この事は蜷川博士の著にもあるが、私は先年小栗貞夫翁から直接聞いたところである。」と記している。

以上のように昭和16年にこうした評価を得ている小栗上野介、そして日本の産業革命の先導的役割をになった横須賀製鉄所について、日本史の教科書に一行の記載がなされていないのは何故であろうか、不思議でならない。今こそこれを明らかにすべきではなかろうか。

(元横須賀市助役 井上吉隆)