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横須賀製鉄所物語

明治天皇行幸

横須賀製鉄所物語<21>

『横須賀海軍船廠史』の明治4年紀には「11月21日 天皇陛下ニハ横須賀造船所天覧ノ為メ御前9時東京濱御殿ヨリ龍驤艦ヘ乘御午後3時横須賀 御著艦官廳前ニ御上陸・・・」と明治天皇行幸の記述があり、横須賀造船所(明治4年製鉄所が造船所と名称変更される)の各施設を御巡覧され、23日に東京丸により還幸されました。

孝明天皇の時代までは、ほぼ御所の中で過ごされていたので天皇のお姿を見ることはできませんでしたが、孝明天皇は1863年(文久3)3月と4月に賀茂社と石清水八幡宮に行幸されるまでは、237年の長い間天皇は御所をでることはありませんでした。

こうした背景には、1615年(慶長20)徳川秀忠により江戸幕府と天皇及び公家に対しての関係を定めた「禁中並公家諸法度」によるもので、江戸幕府としては天皇家には祭祀・学問を求め、政治については鎌倉時代からの武家によるものとしていました。しかし、明治新政府の樹立により、佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』によれば、大久保利通は理想に描いていた天皇像をヨーロッパの帝王のようなイメージであったので、その為には天皇の生活空間を一新する改革をすることから始めるべきと岩倉具視に上申したと述べています。

そこで、近代的な新たな天皇へと転換するために、積極的に政務に関与すると共に、そして、閉ざされた天皇から開かれた天皇へと行幸啓・巡幸が実施されることになりました。その先駆けとなったのが横須賀造船所への行幸でした。この行幸が無事に成功したのを受けて1885年(明治5)5月28日から7月12日にかけて近畿・中国・九州の第一回巡幸が実施され、引き続き第六回1885年(明治18)までの巡幸が実施される中、明治新政府が目指す中央集権国家が進行することになりました。

明治天皇の実質的な行幸・巡幸は横須賀造船所から始められたもので、その後の天皇・皇后陛下の横須賀造船所の行幸啓により、行幸啓の礎が築かれたと言っても間違いないものと思います。『新横須賀市史』『年表』によれば、明治天皇・皇后の横須賀造船所への行幸啓は、造船所視察・艦船命名・進水式に18回もの多きに亘り及んでいます。国道16号を通過する際には、日本の近代国家の幕開けともなる天皇行幸の発祥の地となる事実を、ジッと見つめようではありませんか。

(元横須賀市助役 井上吉隆)