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横須賀製鉄所物語

観音埼灯台の建設その2

横須賀製鉄所物語<24>

観音埼灯台は、横須賀製鉄所の建築課長であるルイ・フェリックス・フロランの設計により初代の灯台が建設されました。なぜ灯台が建設されることとなったのでしょうか。

それは、初代の灯台が点灯された1869年(明治2年)から遡ること6年前の1863年(文久2年)5月に、徳川幕府は孝明天皇の命を受け攘夷を実行することとなりました。すると長州藩は時をおかず直ちに下関で外国船を砲撃します。これに対してイギリス・オランダ・アメリカ・フランスの4カ国は、長州藩に対して連合艦隊の出撃を通告し、8月には軍艦17隻・砲288門・兵500人をもって横浜港から出港し、長州沖に到着するや砲撃を開始し砲台の全てを破壊し、一部占領することとなりました。

長州藩は、高杉晋作を全権大使として四国連合艦隊の旗艦であるユーライアラス号に派遣し、キューパー司令官との停戦交渉に臨みます。この交渉結果について通訳を担当したイギリスの通訳アーネスト・サトウは、この時の高杉の様子を「非常に傲然としていた が、司令官から出された要求は何の反対もせずに、全て受け入れた」と語っている。この交渉では四カ国から賠償金300万ドル(現在の金額で約700億円)の要求が出され、高杉晋作はそれを受け入れ停戦が成立します。しかし、長州藩は「攘夷の実行は、徳川幕府が朝廷に約束したものを、長州藩が代わって行ったものだ。従って賠償金は徳川幕府が支払うべきだ」として支払いを拒否し、結果的に徳川幕府が賠償金を支払うこととなりました。

また当時の長州藩には300万ドルの賠償金の支払い能力はありませんでした。支払いの方法は、1865年(慶応元年)6月から3ヶ月毎に50万ドルを6回払いとしました。徳川幕府は、1回目については期日通り支払ったものの、2回目については支払期日に間に合わないことから、四カ国は徳川幕府が財政的に困窮しているとの認識から、賠償金の三分の二を減免することとし、その条件として(1)条約の勅許(2)兵庫港の早期開港(3)関税率の低減、以上3点の要望し、徳川幕府は全12条からなる江戸条約(改税約書ー改税条約)を四カ国の代表と調印しました。その結果関税率の引き下げが実施されるとともに、輸出入による港への出入港の安全性を確保する為に、灯台の設置が条約の中に盛り込まれました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)