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横須賀製鉄所物語

横須賀製鉄所と栗本鋤雲

横須賀製鉄所物語<35>

横須賀市立自然・人文博物館(横須賀市立文化会館の隣)の前庭には小栗上野介と並び栗本鋤雲の銅像が設置されています。栗本鋤雲は、横須賀製鉄所建設に当たって小栗上野介を支え、その建設に大きな力を発揮されたと言われていますが、はたしてどんな人物だったのでしょうか。

彼は、1822年(安政5年)江戸猿楽町の北村家に生まれ、8歳の時に「孝経」を安積良斎から学びます。その後体調を崩し、翌年から約9年間に亘る療養生活を強いられますが、 17歳で再び安積良斎の門下に戻り、後に昌兵黌に学び22歳で甲科に合格します。24歳になると昌平黌で師事した佐藤一斎のもと、下谷六軒町に塾を開きます。その後、彼に転機が訪れます。

1848年(嘉永元年)27歳で幕府奥詰医師栗本瑞見の養子となり、通称瀬兵衛を名乗り漢方医学を学び、29歳になると奥詰医師となりました。しかし、1857年(安政4年)36歳の時に幕府の観光丸による軍艦操練の伝習に応募して、譴責を受け蟄居を命じられます。そして、翌年には函館へ移住させられ、函館居住の幕府諸士の統率を行うこととなりました。この時に当時フランスの函館領事館に勤務するメルメ・カションとの交流が始まり、栗本はカションに日本語を、カションは栗本にフランス語を交互に教え合う仲となりました。この二人の交流がその後の日仏関係に大きな影響を与え、両国の絆になりました。

そうした中、41歳の時には身分が医籍から士籍へと移り函館支配組頭となります。翌年には江戸に戻り昌平黌頭取になり、更に次の年には目付に昇進し外国問題担当に抜擢されます。ある時、ロッシュ公使を訪問した折り、メルメ・カションと再会します。そして、この年、幕府軍艦「翔鶴丸」の修理がフランス海軍により実施され、その修理の見事さと製鉄所建設について熟友である小栗上野介と話し合い、小栗上野介から製鉄所建設についてフランスへの協力が得られないかとの相談を受けます。栗本は早速ロッシュ公使への橋渡しをして、幕府の交渉にも参画しフランスの同意を得て、横須賀製鉄所が建設されることとなりました。

その後、栗本鋤雲は、フランス式陸軍の教習、フランス語学校の設立に尽力し、1865年(慶応元年)には外国奉行に任じられ、1867年にはフランスに派遣されます。しかし、時代は徳川幕府の崩壊、明治新政府の発足と目まぐるしく変転する中、帰国し農業に従事しますが、能力を買われ東京毎日新聞社、郵便報知新聞社において過去の実績を背景に健筆を振るいました。そして晩年には島崎藤村に漢詩文を教えるなど偉大な外交官であり文化人でした。

(元横須賀市助役 井上吉隆)