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横須賀製鉄所物語

小栗上野介①

横須賀製鉄所物語<57>

JR横須賀駅を出てヴェルニー公園に入ると、横須賀製鉄所建設の功労者である小栗上野介とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの銅像が海に向かって設置されています。

小栗上野介は、江戸徳川幕府旗本の家に生まれました。なかには群馬県倉渕村(現在の高崎市)の生まれと間違った考えを持つ人がいますが、生粋の江戸っ子で神田の生まれです。お茶の水にある明治大学駿河台キャンパスの前の道を少し下がり、旧主婦の友社の跡地が出生地なのです。

小栗上野介が子供の頃には塾に通っていました。現在ではすべての国民が義務教育を受けることになっていますが、当時の教育は一流の学者が塾を開き、そこに通うものですから特別な人に与えられた教育機会でした。

坂本藤良著『小栗上野介の生涯』によりますと、小栗上野介は当時一流の学者である安積良齋の塾に学びました。安積良齋は「彼が小栗屋敷に塾を開いたのは文化11年(1814年)であったといわれ、天保2年(1831年)『文略』を著して名声を博した」と記しています。そして、この塾で5歳年上の栗本清兵衛(鋤雲)と知り合い、二人の友情はこの時芽生え、生涯を通じて変わらなかった」述べています。その後、小栗上野介は満20歳になると江戸城中に召されることになり、そこでの仕事ぶりからめきめきと頭角を現しました。徳川家定が将軍となり西の丸から本丸に移ると、小栗上野介も本丸勤務となります。徳川幕府も首脳部に新たな人材を登用して、後に「外国奉行」となる「海防掛」が編成されることになりました。そこではアメリカの黒船来航問題やロシア外交問題に対応することとなりました。

その頃、徳川幕府では、内政問題として徳川家定が病弱なので次の将軍を「紀州家」か「水戸家」のどちらから選ぶか、外交問題では鎖国を続けるべきか開国すべきか、この二つの問題についていろいろ意見が分かれていましたが、井伊直弼が大老に就任すると、将軍は「紀州家」から外交問題は開国へと進むこととなりました。

この意見に反対する幕府関係者や各藩の関係者が、「安政の大獄」により大変な処分を受けることになりました。また、井伊直弼が開国に踏み切った「日米修好通商条約」の批准のアメリカ派遣のメンバーも変更されることとなりました。坂本藤良著『小栗上野介の生涯』によりますと「忠震らがハリスと約束したワシントンでの条約批准のための使節を幕閣はすでに内定していた、忠徳、尚志、忠震らに内命が与えられていたのである。しかし“安政の大獄”に向かって井伊独裁の内部固めの過程で、それらの人びとは左遷されてしまった」と記されています。そこで新たなメンバーとして、小栗上野介が登場することとなりました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)