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横須賀製鉄所物語

小栗上野介④

横須賀製鉄所物語<60>

咸臨丸は、築地から浦賀に向かい3日間停泊して食料・水・薪などの必要物資を積み込み、安政7年(1860年)1月19日に浦賀を出港しました。

この出港は、正使の乗船したポーハタン号よりも3日早いものでした。本来ならば、正使の軍艦に同行すべきでしたが、アメリカ人の運航する軍艦よりも一日でも早くアメリカに到着したいという咸臨丸の乗組員の気持ちがそうさせたのではないでしょうか。

江戸湾を出て太平洋に入ると、木村摂津守の心配していたことが的中しました。木村摂津守の予想をはるかに超える時化となり、激しい暴風雨に咸臨丸は翻弄され、当時の日本海軍のトップクラスの乗組員には全く手も足も出ない状況で、ただ船室で暴風雨の収まるのを待つのみでした。この時、操船の指揮をとったのは日本人の乗船を拒否したアメリカ人のブルック大尉でした。その指揮により行動できたのはアメリカ海軍の兵隊10名で、日本人は船酔いで行動できず、わずか数人の人たちが作業に当たりました。アメリカ人乗組員は大きく揺れ振り落とされそうになりながらも、平然とマストに登り裂けた帆の取り外しや帆の上げ下ろしや畳み込みなど、日本人では想像もつかない作業を的確に処理したのでした。

日本の教授方頭取勝麟太郎は自室にこもりきりで、何の指示もできないまま過ごし、陸地が近づき、船の運航が安定してから指揮者として振る舞おうとしたので、乗組員からは支持は得られず、ことごとく乗組員との間でトラブルを起こしていたとのことです。

坂本藤良著『小栗上野介の生涯』によると「全航海中の三分の二以上はブルックが指揮をとった。全航海38日間のうち天気がいいのは4、5日間しかなかったのである。もしブルックらがいなかったら、咸臨丸は難破していた可能性がある」と記しています。しかし、勝海舟の『氷川清話』によりますと「万延元年に咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借りないで亜米利加へ行ったのは、日本の軍艦が外国へ航海したのは、おれが初めてだ」と記されています。この記述がもとになってかつての日本史の教科書には、日米修好通商条約の記述は全くなく、咸臨丸が日本人の手によって太平洋を横断したとの壮挙が記載されました。ただし、現在の教科書からは外されましたが…。

日本史の幕末期はもう一度手に取ってみることが必要ではないでしょうか。

(元横須賀市助役 井上吉隆)