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横須賀製鉄所物語

小栗上野介⑤

横須賀製鉄所物語<61>

初めて訪問する会社で相手の方には、欠かさず名刺が使用されています。こちらの身分を明らかにして、そこから商取引や人と人との交流関係が生まれてきます。

今から150年以上前に、日米修好通商条約の批准に当たりアメリカを訪問した遣米使節団は、どのようにして身分を明らかにしたのでしょうか。1853年黒船来航により、開国の幕開けが始まろうとしたときに、どのようにして身分を明らかにしたのでしょうか。中島三郎助は、副奉行と身分を偽り交渉したと伝えられていますが、名刺を交換したとの記録は残されてはいません。しかし、この日米修好通商条約の遣米使節団は名刺を持参していました。私の親友の白岩義賢さん(現在は故人となられている)が記され、横須賀市生涯学習財団が平成26年(2014年)に発行した『頭の自由時間』によれば「日本人が初めて洋式の名刺を使ったのは、萬延元年(1860年)の正月に幕府の海外使節としてアメリカへ派遣された新見豊前守正興、村垣淡路守範正、小栗豊後守忠順の三人だ、という説があって、おそらくその通りだろう。その当時ニューヨーク・ヘラルド紙に(これらの名刺は桑の皮で作ったもので幅三寸、長さ六寸ほどのものであった。その名刺には三人の使節の名が日本語と英語で記されていたと書いてある。と言ったのは日本文化史の権威、日置昌一さんである。この木の皮製名刺はセンチで言うと幅10センチ長さ20センチ弱で、かなりの大名刺だ。」と述べています。名刺の持つ意味も知らず、その交換方法について経験のない人たちが、名刺を持たされたときにはどんな思いで手にしたのでしょうか。私達には全く想像が及ばないものです。そして、その名刺は当時の服装からは袖のたもととか、胸の懐に入れていたものと思われますが、スマートに名刺交換が行われたのでしょうか。想像してみてください。現在の名刺とは全く異なる当時の名刺の実物を目にしたいものですね。

また、咸臨丸の軍艦奉行木村摂津守善毅は、サンフランシスコ市長の正式な歓迎会に招待されたとき宗像善樹『咸臨丸の絆』によれば「木村は、懐から自分の名刺を取り出し、市長に手渡して、万次郎の通訳で自己紹介したそうです。木村が手にした名刺は、サンフランシスコ到着後、地元の新聞社を訪問したときにプレゼントされた軍艦奉行木村摂津守の英文名刺で、Admiral KIM-MOO-RAH-SET-TO-NO-CAMI Japanese Steam Corvette CANDINMARRUHと印刷されていた。これが日本人が外国人に使用した最初の英文名刺であるといわれている」と述べられています。この様に日米修好通商条約の批准書の交換のためのアメリカ訪問から名刺が使用されたもので、改めて当時の実物を目にして自分の名刺のデザインを考えるきっかけにしたいものですね。

(元横須賀市助役 井上吉隆)