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横須賀製鉄所物語

勝麟太郎の意欲と挫折➀

横須賀製鉄所物語<68>

木村摂津守と勝麟太郎がアメリカへの派遣について正式に伝えられたのは、安政5年11月28日江戸城でした。

その時木村は30歳、勝は38歳でした。勝はかねてから日米修好通商条約批准書交換のための正使一行の船とは別に、軍艦を派遣することを耳に入れていて、幕府の高官に再三にわたり渡米についての希望を書状で伝えていましたので、江戸城での派遣の伝達は夢のような気持ちで受けたことと思います。

木村は、木村図書から木村摂津守を名乗り、千石の禄高から千石の加増で二千石となりました。一方、勝は百俵扶持から木村と同じ倍増の二百俵十五人扶持となりました。そして、軍艦奉行には木村摂津守が任命されました。勝麟太郎にしてみれば、操船技術についても未知数で、年齢的にも年下の者が軍艦奉行に昇進して、操船の指揮と責任を負うことになり、さぞかし、大きな不満を持ったことでしょう。勝麟太郎としては、自らの実力を幕府は認め、航海全般の責任者に指名されると自負していたので、それらが見事に覆された結果となりました。

勝麟太郎が自らの力量を高く評価していたのは何であったのでしょうか。それは長崎海軍伝習所で受けた教育にあったのではないでしょうか。

長崎海軍伝習所は、幕府海軍の養成を目的として1855年(安政2年)に設立されました。講師としてオランダから派遣を受け、軍艦の運航のみならず造船、語学、医学など幅広い教育が行われました。特に軍艦の運航訓練にはオランダから提供された軍艦観光丸が練習鑑として使用されました。

長崎海軍伝習所の初代総裁には永井尚志が就任し、1856年(安政3年)には二代目総裁として木村図書(後の摂津守)が就任します。伝習所の教育は1年間で終了するコースが設定されていて、1857年(安政4年)の三年間教育が行われました。しかし、江戸から遠隔の地にあることから翌年には江戸築地へと移転することになりました。

長崎海軍伝習所の研修生は、浦賀奉行所からも派遣されていました。中島三郎助、浜口興右衛門、佐々倉桐太郎、岡田弁蔵、山本金次郎等が派遣され、日米修好通商条約批准書交換使節団の随伴艦咸臨丸に乗船しています。しかし、なぜか中島三郎助だけが外されているのです。尚、この伝習所の研修生の中には肥田浜五郎、小野友五郎、赤松大三郎、小杉雅之進等も咸臨丸に乗船しています。

(元横須賀市助役 井上吉隆)