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横須賀製鉄所物語

横須賀の水道その2

横須賀製鉄所物語<89>

関東大震災により横須賀市内の家庭の蛇口からも工場の蛇口からも一滴の水も出なくなりました。何よりも生活する上で必要な水を供給することが水道関係職員の務めであると考え、震災後の水道施設を調査した結果、幸いなことに市内唯一の水源であるヴェルニーにより建設された走水は、比較的被害が少なく、湧水量も平常と大して変わらないことが分かりました。しかし、送配水管切断された上、ポンプも動かず、湧水はそのまま貯水池から溢れ出て海へと流れ出ていました。

そこで、水道の担当職員は、この湧水を下町地区に送ろうと考えました。水道水の運搬については、各種の条件から一番問題のない海上輸送を考えました。これは素晴らしい提案でした。しかし、その作業の実施に向けては多くの難問があり、それをどのように解決し克服して実施するかが問われました。まず、海軍からカッター(大型ボート)を借り受けました。海に浮かぶカッターに水道水を積み込み運搬する案でした。走水の海岸は、遠浅なのでカッターを走水海岸近くまで誘導出来ませんでした。かなりの沖合にカッターを碇泊させて走水の貯水池からの水道水の運搬をしなければなりません。

そして、この海上輸送について横須賀市上下水道局発行の「水の旅」によりますと「岸とボートとの間の海上にホースを渡さなくてはなりません。しかし、その距離が長いため、途中に支えがないとホースは海中に没してしまいます。そこで、海面上でホースを支持する桟橋が必要となりましたが、ことは一刻を争い、桟橋を設備する時間などはとてもありません。そこで水道課員たちはみずから海中に入り、約2メートル間隔で岸とボートとの間に列をなし、ホースを支えることにしたのです。水道課員を橋脚とした(人桟橋)です。(略)人桟橋となった課員たちは、交替しながらとはいえ、筆舌に尽くしがたい苦痛に歯を食いしばって耐えなくてはなりませんでした。彼らは首まで海水に長時間浸り、全身冷気に苛まれ、空腹と疲労に苦しめられました。海水もただの海水ではありません。重油タンクの破裂によって流れてきた重油にまみれています。全身はコールタールを塗ったように真っ黒に染まり、強い臭気に頭痛を発し、時に重油の飛沫が口に入って嘔吐をもよおすなど、想像を絶する苦難と闘いながらの作業となりました。こうした過酷な作業に耐え続けられたのも、渇水に泣く9万の市民を思えばこそのことで、水道課員たちは重油をかぶりながら互いに励ましあい、ついに海上輸送をやりおおせたのです」と記されています。

この海上輸送は9月3日から連日続けられ、9月末までの約1ヶ月間毎日数回実施されました。その後、海軍が丸太で約70メートルの桟橋を建設したので、人の桟橋は解放されました。このヴェルニーによる走水水源は、関東大震災における市民の急場を救った「命の水」となったのです。

(元横須賀市助役 井上吉隆)