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横須賀製鉄所物語

国産軍艦の建造その2

横須賀製鉄所物語<97>

横須賀造船所と名称が変更されたドックで建造された、国産軍艦第1号となった「清輝」とはどのような軍艦だったのでしょうか。

大井昌靖著「初の国産軍艦『清輝』のヨーロッパ航海」によりますと、「長さ60メートル、幅9メートル、排水量897トン、速力9.6ノット(時速約18キロメートル)、乗組員は、ヨーロッパ航海時の記録によりますと、士官21名、兵員118名、雇人19名の合計158名であった。(略)武器は、アームストロング砲1門、クルップ砲を5門搭載」と記されています。

そして、アームストロング砲とは、大井昌靖著「初の国産軍艦『清輝』のヨーロッパ航海」によりますと、「イギリスのアームストロング社」が開発した大砲で、それ以前は砲弾を砲口から装填する前装砲であったものを、砲弾を砲尾から装填する後装砲にした。後装砲にすることで、単位時間に発射できる弾数の発射速度を格段に向上することができた。イギリス海軍が初めてこの砲を使用したのは、1863年(文久3年)7月の薩英戦争であった」と記されています。

その後も使用されている大砲と同じ形式のものです。その初めての使用がイギリスが薩摩の攻撃に使用されたとは、日本にとっては何たる悲惨なことであったことでしょうか。こうした装備を備えた国産軍艦が誕生し、国を守るための大きな役割を担い小栗上野介の夢が現実のものとなりました。

そして、「清輝」の活躍の場になったのは皮肉にも国内の争乱の場でした。明治維新により武士の人達の特権が剥奪され、士族の人たちの不満の声が高まって行きました。

明治7年(1874年)には、司法卿を務めた江藤新平をリーダーとした「佐賀の乱」が起こりました。次いで、明治9年(1876年)には、熊本県で「神風連の乱」、同年福岡県で「秋月の乱」、更に、山口県で「萩の乱」が起こります。こうして、倒幕の中心となった士族の不満が爆発しました。明治新政府は必死に全力を挙げて反乱を鎮圧しました。そして、最後となったのは、明治維新に大きな役割を果たした鹿児島県の西郷隆盛が中心となり西南戦争が明治10年(1877年)が勃発しました。この名称が示すように、明治新政府軍が反乱鎮圧と言うよりも、日本における最後の内戦であったと考えられます。

そして、この西南戦争には横須賀造船所で建造された日本初の軍艦清輝が政府軍の戦力として派遣されることになりました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)