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鎌倉殿の13人「六波羅蜜寺」

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝の亡き後、合議制で2代将軍頼家を支える一方で権力争いが展開されていきます。

その13人の合議制のメンバーは、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、三浦義澄、和田義盛、北条義時です。京都には源頼朝のライバル平家一族の縁のある場所が点在しています。

歴史物語『平家物語』に「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と書かれているように、平家一族は栄華を極め、京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯(現在の京都市東山区付近)の六波羅と呼ばれる地域を本拠として、百を超える屋敷が軒を連ねていました。

ちなみに、平安京の代表的な埋葬地の一つとして知られる、鳥辺野(とりのべ)の入り口にあり、この付近はあの世とこの世の境界の土地とみなされていました。

このような地に創建された六波羅蜜寺は、今からおよそ千年前の平安時代半ばと言われています。天暦5年(951年)、京都に疫病が蔓延したため、空也上人は、疫病がおさまり世の中が穏やかになるように「疫病退散」を祈り、十一面観音菩薩立像を造像し、西光寺を創建して、念仏を広めました。空也上人の没後に、弟子である天台宗の中信が六波羅蜜寺と改称し、天台宗の別院としました。その後、平家の没落とともに焼け落ちた後、現在の本堂は、円海上人観実によって勧進が募られ修造されたものです。

東京国立博物館(上野)本館に掲げられた垂れ幕にある仏像は、日本史の教科書でもおなじみの重要文化財「空也上人立像」です。運慶の四男である康勝の作品で写実的に表現されていると言われています。

空也上人がこの世を去ってから200年以上が経過した鎌倉時代に制作されました。常に市井の人々と共にあった上人への畏敬の念と、口から6体の阿弥陀仏が現れたという伝承を表しています。

空也上人が生きた平安時代十世紀は社会体制の変革期であり、また、今で言うところの「パンデミック」という目に見えぬ疫病が流行る中、人々の生活をおびやかす不安を取り除けるように祈り、小梅と昆布を入れた皇服茶(おおぶくちゃ)と言われるお茶をたて、井戸を掘り、火葬をすすめ自らの命を省みることなく病人を介抱しました。

ところで、この「六波羅蜜」とは、仏教用語で、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行を意味します。「波羅蜜」とは、彼岸(悟りの世界)に到ることを意味します。

「布施」(ふせ)とは…見返りを求めぬ分相応の施し ➡「親切にする」

「持戒」(じかい)とは…法律、道徳の順守の上に自ら戒めること ➡「言行一致」

「忍辱」(にんにく)とは…人の世は思うように行かぬもの、耐え忍ぶこと ➡「忍耐」

「精進」(しょうじん)とは…日々誠心誠意尽くすこと ➡「努力」

「禅定」(ぜんじょう)とは…第三者の立場で自分自身を見つめること ➡「反省」

「智慧」(ちえ)とは…本来仏様の智慧を頂いてこの世に生を受けているが、貪り、怒り、愚痴によって、その大切な智慧を曇らせてしまいがち、「布施」から「禅定」までの修行を積むこと ➡「修行」

日々、修行に励む(念頭に置きながら生活する)ことで、他者との比較ではない、人の評価が気にならない、ストレスの少ない、自分と向き合う生き方になります。

(参考資料「特別展空也上人と六波羅蜜寺」「でくの坊の養生訓」)