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追浜の歴史

鎌倉時代~江戸時代

追浜の歴史1

「追浜の歴史探訪」を出版された前横須賀市追浜行政センター館長で、現在は神奈川新聞社が主催する「青木塾」で塾長として活躍されている青木猛氏に追浜の町の変遷についてお話しを伺いました。

歴史をたどれば追浜は、宝の山である。その昔、金沢と追浜の海岸線は、野島、夏島、烏帽子島が浮かびとても景観がよかったそうだ。夏島は遡ること9500年前に、縄文時代の古代人が住み今も国指定史跡の夏島貝塚が現在している。夏島周辺の浜は、旧帝国海軍の海軍大尉がフランス製の水上飛行機で飛行し100年が経った地である。知られてないが日産追浜工場の手前に、古墳時代の雨乞い儀式に使ったらしい珍しい牛頭骨の最古の祭祀遺跡「なたぎり遺跡群」が完全な形で発見されている。

建久4年(1193)源範頼が、鎌倉幕府創建の兄頼朝に伊豆へ配流され殺害された。追浜の「鉈切り伝説」では、蒲の冠者範頼が榎戸湊に上陸し、鎌倉の追手に追われ助けた人々に上げるものがなく、蒲谷の姓を授けたと言われている。

室町時代になるとお寺の創建が始まり、応永元年(1394)能永寺が創建された。能永寺裏には、奈良時代の榎戸横穴群があり、発掘の出土遺物が寺に展示されている。他に応永14年(1406)自得寺開山、文明2年(1470)の「応仁の乱」のころ法福寺も創建され
た。

追浜に住み唯一この地を統治した武士は、北条早雲の家臣で玉縄18人衆3番目に数えられる朝倉能登守で、天正9年(1581)雷電社(雷神社)を勧請・良心寺の開基もした人物である。徳川幕府の老中酒井雅楽頭忠清が、寛文4年(1664)に浦郷村の領主となり浦郷陣屋を築いた。後に浦賀道の中継地点としてご陣屋も開かれた。

幕末の嘉永6年(1853)米国ペリー艦隊は夏島沖に碇泊し、島にも上陸して動植物を採取した。この時、ペリー提督は、横須賀湾を測量してサスケハナ湾また夏島をウエブスター島と名付けた。アメリカに帰国後、日本人の手先の器用さを見てきて、鎖国を解き開国により技術力が導入されればモノづくりの面で、将来、西欧諸国と競う国になることを予言した。明治に入り近代化が進み、ペリーの予言はまさに追浜の旧横須賀海軍航空隊や海軍航空技術廠に象徴されて行った。

(神奈川新聞社主催「青木塾」塾長 青木猛)