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横須賀製鉄所物語

お雇い外国人②バスティアン

横須賀製鉄所物語<54>

横須賀製鉄所建設のため幕府のお雇い外国人として、フランソワ・レランス・ヴェルニー以下43人は、1866年(慶応2年)10月横須賀に到着し工事に着手しますが、その後日本側の要請により製鉄所以外の仕事にも従事します。

その一例として富岡製糸場の建設への協力です。任務にあたったのはエドモン・バスティアンです。彼はヴェルニーにより船工兼製図職としてシェルブール造船所の船工から選抜され来日しました。そして、横須賀製鉄所は日本では想像できないようなスピードで事業が進められました。山を削り海を埋め立て1865年(慶応元年)に鍬入れ式が行われ、6年後の1871年(明治4年)にはドライドックの第一号が完成しました。

建設に着手した時は、徳川幕府によって実施されましたが、完成したのは明治新政府になってからでした。言わば明治新政府の産業の近代化の新工場が立派な見本として完成したものでした。そして、明治新政府は富国強兵をスローガンに掲げ、富国の為には貿易による収入が重要だとして、輸出の中心であった生糸についての近代的な製造工場を建設すべきと、伊藤博文大蔵少輔と渋沢栄一租税士が中心になって担当し、築地在住の仏人アルベール・シャルル・デユ・ブスケに相談し、横浜の和蘭八番館に居住していたガイセン・ハイメルを紹介され、その斡旋でポール・ブリュナを採用することにしました。と富田仁・西堀明『横須賀製鉄所の人びと』には記されています。

ブリュナは、この計画の実施について工場建設には既に横須賀製鉄所で成功を収めているヴェルニーに協力を求めます。ヴェルニーは、求めに応じてエドモン・バスティアンを推薦します、彼の手により工場の施設以下全て横須賀製鉄所と同様に、メートル法により木骨煉瓦造・トラス構造による工場等が設計され、建設が実施に移され完成いたします。その美しい姿は2014年世界文化遺産に登録され富岡町でその姿を見ることが出来ます。

そして、このエドモン・バスティアンの活動は、単に横須賀製鉄所と富岡製糸場との間での協力関係ではなく、明治新政府の大蔵省の事業として実施されたので、大蔵省からの辞令により勤務していました。その結果製糸場が完成し『横須賀海軍船廠史』明治5年紀によれば「9月1日是ヨリ先キ客年12月大藏省ノ嘱托ニ因リテ上州富岡製糸場ノ建築ニ従事セル造船場月雇佛人ばすちゃんハ製糸場ノ任期滿チテ本年7月23日横須賀に帰着(以下略)」と記されています。このように横須賀製鉄所職員として採用されたお雇い外国人は、横須賀製鉄所だけでなく日本の近代化のために大きく貢献することになりました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)