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横須賀製鉄所物語

横須賀製鉄所と無窓疎石

横須賀製鉄所物語<101>

夢窓疎石(夢窓国師)は横須賀製鉄所とは全く関係のないような人物と思われますがそうではありません。時代を遡り鎌倉時代には横須賀は未だ未開の地であり、特に稲岡町は人も入らぬ山林でした。その未開の地に庵を結んだのが夢窓疎石です。鈴木かおる氏の『三浦一族の史跡道』によりますと、「三浦貞宗の本城は、三浦郡横須賀郷逸見村長峰(横須賀市緑が丘の諏訪神社の裏山)であろう。貞宗は、宝治の乱で生き残った庶流・佐原時連の孫(時連-宗明-貞宗-行連-範連)で、横須賀氏を称している。彼は自領の横須賀郷内に泊船庵(今の米軍基地内)を建て高僧・夢窓疎石を住まわせ、…」と記されています。現在でも米海軍横須賀基地内には「泊船庵」の碑が残されています。基地内見学の機会があればドライドックの近くに建立されていますので、碑を見ることで当時を偲んでみてはいかがでしょうか。このように横須賀製鉄所建設以前に鄙びた海辺近くの山林に庵を結んだ高僧がいたことを記憶しておきたいものです。

それでは、夢窓疎石はどのような人物だったのでしょうか。夢窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏からも深く帰依されていました。そして、歴代天皇から七度にわたり「国師」号を賜与されました。その一つが「夢窓国師」号で、広くこの名称が使用されています。夢窓疎石は、鎌倉時代以降において臨済宗では重きをなした高僧で鎌倉の円覚寺、京都の南禅寺、浄智寺などそれぞれの五山の寺の住職に八度も務めています。そして、夢窓疎石により開山した寺は京都の天龍寺、甲斐の恵林寺など主な寺だけでも六ヶ寺に及びました。特に、京都天龍寺は南北朝の争乱により南朝の後醍醐天皇の冥福を祈り、北朝の足利尊氏が建立したもので、京都五山の筆頭(南禅寺は別格)に位置づけられています。また、夢窓疎石は庭園の設計にも秀でた才能を有し、甲斐の恵林寺の他、京都の名庭と呼ばれている天龍寺庭園、苔寺で有名な西方寺庭園を作庭しています。

そして、この近くの寺院での作庭では鎌倉市における瑞泉寺庭園です。その庭園の何れもが国の特別名勝・名勝に指定されています。せめて近くの瑞泉寺庭園を拝観して、横須賀製鉄所の建設場所に庵を結んで高僧となった夢窓疎石を偲びたいものです。

臨済宗 五山
鎌倉五山・京都五山と呼ばれる寺院があります。五山については、鎌倉時代に北条氏により中国の南宋を例にして五山制度を 導入して、鎌倉の寺院を中心として五山を選定しました。そして、南北朝時代になりますと、足利将軍家が夢窓疎石を中心として京都の寺院に、新たに五山を選定しました。その後、種々の経過を経て室町時代の1386年(至徳3年)に三代将軍足利義満が京都相国寺を創建した後に京都五山と鎌倉五山を分割し、両五山の別格として京都南禅寺を置くことにしました。
◇鎌倉五山…第一位建長寺 第二位円覚寺 第三位寿福寺 第四位浄智寺 第五位浄妙寺
◇京都五山…第一位天龍寺 第二位相国寺 第三位建仁寺 第四位東福寺 第五位万寿寺
以上の格付けは、足利氏による臨済宗寺院の政治・政略的な格付けだと言われています。

(元横須賀市助役 井上吉隆)