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横須賀製鉄所物語

恒川柳作

横須賀製鉄所物語<45>

横須賀製鉄所(造船所)黌舎の第二期生として1873年(明治6年)に卒業した恒川柳作(つねかわ・りゅうさく)は、1988年(昭和63年)発行の横須賀市文化財調査報告書第17集の『明治時代に造られた日本のドライドック』によりますと、1884年(明治17年)に完成した横須賀製鉄所第2号ドック(建設された順序では3番目)は恒川柳作が設計監理されたと記されています。

第一号・第三号ドックはヴェルニーにより設計監理されたものであり、その技術の伝承を受けジュエットの指導の下、日本人の手により初めて設計監理し施工され完成したものです。

そして、恒川柳作は横須賀市内の浦賀川間に所在するドックの設計施工にも当たりました。このドックは、榎本武揚らが亡き中島三郎助のために建設したドックの近い位置に、渋沢栄一等が日立造船川間工場として建設したもので、後に浦賀船渠株式会社に買収されることになりましたが、現在は住友重機械工業株式会社の所有となり周辺の一体開発により、ドライドックをシティマリーナ・ヴェラシスとしてヨットやクルーザーが係留されています。

また、県内では横浜市内の三菱重工業株式会社横浜造船所2号ドックを1896年(明治29年)に、1号ドックを1898年(明治31年)に、3号ドックを1910年(明治43年)にそれぞれ設計監理して完成させています。

この地域一帯は、MM21として全面的に再開発されました。そして、帆船日本丸の展示場として利用され、ドックヤードはイベント広場として利用されるようになり大きく変貌しました。

更に、県外では広島県呉市の海軍鎮守府第一号船渠を1891年(明治24年)に、長崎県佐世保市海軍鎮守府第一号船渠を1895年(明治38年)に京都府舞鶴市海軍工廠を1904年(明治37年)にそれぞれ設計監理し完成させています。

恒川柳作は、造船所建設のスペシャリストとして休む間を惜しんでの活躍であったと思います。こうした人材が後世の技術者達に技術の伝承が行われ、造船大国日本を築く礎になったと考えられます。

(元横須賀市助役 井上吉隆)