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横須賀製鉄所物語

伊東栄

横須賀製鉄所物語<47>

横須賀製鉄所で育成された人材は、黌舎で学んだ者だけではありませんでした。
その中の一人が伊東栄でした。彼は、奥医師伊東玄朴の四男として生まれました。富田仁・西堀明著『横須賀製鉄所の人びと』によりますと幕命により1865年(慶応元年)2月に横浜のフランス語学所に入所し、その後騎兵差図役に任命され、後に徳川慶喜の警備役を務めました。
1869年(明治2年)には横須賀製鉄所の土木少佑に任命され、初めてフランス造船術に接することとなりました。そして、フランス語学所で学んだ語学が活かされて二等譯官となり、フランスと日本を結ぶ大きな力を発揮することになりました。更に伊東の語学力を評価され会計掛一等譯官に昇任し、西欧の会計制度を研究し当時日本の会計処理は大福帳でしたが、横須賀製鉄所では日本で初めて複式簿記を導入しました。
伊東栄は、フランス人により横須賀製鉄所から幕府への報告書を、日本語に翻訳して報告すると共に、三ヶ月毎に実施される幕府への会計報告書を、従前の大福帳と合わせて複式簿記による会計報告書を作成し報告しました。
その後、伊東栄は横須賀製鉄所を退職し、『横須賀製鉄所の人びと』によりますと民間企業に就職し1901年(明治34年)には化粧品を取り扱う会社に就職しました。当時の「お白粉」は鉛毒による事故が多く発生していて問題となっていたので、お白粉の無鉛化に取り組み、努力を重ねて、無鉛化化粧品の製造に成功しました。
そして、会社を設立し「パピリオ化粧品本舗」の前身である「伊東胡蝶園」としてスタートしました。
この無鉛の白粉の普及により、水銀の入っていた輸入化粧品の販売が中止されることとなり、新会社の製品が急速な勢いで売れることとなり、類似品が発売されるまでに至りました。
その後、この事業は「帝人パピリオ」として引き継がれることになりました。
伊東栄は、医師の家に生まれこうした新事業に転じたのも父の遺伝子を引き継ぎ、横須賀製鉄所が生んだ逸材に育成されたといっても過言ではないと思います。
(元横須賀市助役 井上吉隆)