> 新よこすか風土記 > 横須賀製鉄所物語 > 横須賀製鉄所物語<71>

Story新よこすか風土記

横須賀製鉄所物語

咸臨丸の帰国②

横須賀製鉄所物語<71>

日本にとって初めての外交交渉の使節団である遣米使節団の正使一行と随伴艦である咸臨丸乗船者一同は、無事全員が日本に帰国出来たのでしょうか。残念ながら咸臨丸の乗組員の中で、3人がサンフランシスコの地において死亡しています。

咸臨丸がサンフランシスコ到着後、間もなく塩飽(瀬戸内海の諸島)出身の水主の源之助と富蔵が亡くなりました。そして、アメリカ滞在中に常時10人前後が海軍病院に入院していたとのことです。そして、咸臨丸が帰国するときには、乗組員の中、8人の入院患者がいたので、宗像善樹著『咸臨丸の絆』によれば、日本に帰国するにあたり「付き添いのため残留を申し出た塩飽出身の吉松と長崎出身の惣八の2名と共に残ることになった」、更に「木村は、水主や火焚たちだけで異国に残るのは心もとないだろうし、気の毒だと思った。士官たちも木村の意見に賛同して、公用方の小永井五八郎を残留させる案が浮上した。木村は士官たちの案を病院側に伝えようとした矢先に、勝が口を挟んだ。(言葉の通じねえ者を残しても無意味である。金を役人に預けて万事を頼んだほうがよい)またもや、木村が持参してきたドルを当て込んでの反論であり、木村への当てこすりだった。遠い異国に取り残される不安な気持ちを抱える病人たちは、健常の士官が付き添い、残ってくれることを強く願ったが、勝は彼らの気持ちをまったく無視した」と記されています。

そして、木村摂津守は自ら持参した3,000ドルをサンフランシスコ市に預けて、後のことをお願いしました。入院していた病人のうち火焚の峯吉は、咸臨丸がサンフランシスコを出港して間もなく死亡したので、アメリカに渡った日本人のうち3人の尊い命が失われることとなりました。そして、この3人の墓はサンフランシスコ郊外の日本人墓地に建てられました。日本軍艦として初めての海外航海で命を落とされた方々の御霊を葬るため、海上自衛隊の練習艦隊がサンフランシスコを訪問した際には墓参されているとのことです。三笠保存会中塚事務局長のお話では、平成23年6月21日から24日にかけて墓参をされたとのことです。

(元横須賀市助役 井上吉隆)